法要は何のために行うのか

ある日YouTubeを見ていると「死後49日で故人は既に輪廻転生しているのに、なぜその後も年忌法要を行うのか?」という、法要の意味について問を投げかける動画がありました。

今回は法要の意味について考えてみます。

まず、葬儀、初七日忌から七七日(49日)忌、百ヵ日忌、一周忌、三回忌~五十回忌と順に法要を営んでいく文化は、仏教がインド→中国→日本へと伝わり発展していく中で生まれたものです。そのため、インドの輪廻転生、中国の十王信仰、日本の十三仏信仰と様々な思想が融合していることを理解しておく必要があります。

およその意味を理解するために、以下にウィキペディア記事のリンクを貼ります。

輪廻または輪廻転生とは、サンスクリット語のサンサーラに由来する用語で、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わること。

出典『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』「輪廻」
https://ja.wikipedia.org/wiki/輪廻

人間を初めとする全ての衆生は、よほどの善人やよほどの悪人でない限り、没後に中陰と呼ばれる存在となり、初七日 – 七七日(四十九日)及び百か日、一周忌、三回忌には、順次十王の裁きを受けることとなる、という信仰である。

出典『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』「十王」
https://ja.wikipedia.org/wiki/十王

十三仏は、十王をもとにして、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる13の仏である。また十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。

出典『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』「十三仏」
https://ja.wikipedia.org/wiki/十三仏

人類の歴史を考えてみると、良いものは後世へと残り、そうでないものは淘汰されていきます。現在もこうした法要のあり方が続いているのは、いくつもの時代を経て人々に受け入れられてきた証と思います。

ただ、時代によって人の考え、文化は変化していきます。私たちにとって重要なのは「過去のことを、過去の人々はどのように受け入れてきたのか」ではなく、「今を生きる自分自身が、それをどう理解し、受け止めるのか」です。

まずは、「教義」と「慣習」を分けて考えてみます。

時宗は「南無阿弥陀仏とお念仏を称えれば、誰もが阿弥陀仏の極楽浄土に救われるという」という他力念仏の教えです。

ですから、死後に別の人や動物に生まれ変わるという輪廻転生、死後に閻魔大王などの十王の裁きを受けるという十王信仰、死後に十三仏に導かれるという十三仏信仰、これらの思想は時宗の教義とは異なるものです。

西蔵寺では、初七日忌から七七日(49日)忌までの七日ごとの法要は、お釈迦様が菩提樹の下で瞑想され、七日七夜の後に悟りを開いたという故事に倣い執り行っています。

そして、百ヵ日忌、一周忌、三回忌~五十回忌と順に法要を営んでいく文化は、今日まで受け継がれてきた「慣習」として執り行っています。

本題の「現代社会において法要を行う意味」について、考えてみます。

まず、法要は、自分の大切な方が亡くなられた後に、故人を弔うために行う儀式です。死というのには、故人も残された側も、これまで傍にいた人が突然いなくなる、当たり前の日常が突然変わってしまう、という筆舌に尽くしがたい愛別離苦の苦しみがあります。

ですから、法要を執り行うことで、阿弥陀さまや参加された方々の力をお借りして、故人の幸せ=極楽往生を願うのです。

そして、法要は供養の気持ちで行うものです。供養とは、孝行と非常に似た性質があり「故人に何かしてあげたい」、「こんなことをしたらきっと喜んでくれる」という気持ちの表し方です。こうした気持ちが自分の心に宿ることを、発菩提心といいます。

故人のためにと皆が集まり、故人のためにと事を為す、それが供養です。誰かのために、良いことをすると、気持ちがほっこりします。故人のために、お念仏を称え、皆でほっこりした気持ちを分かち合うことを回向といいます。

こうして考えてみるとどうでしょうか?法要を行うのは慣習だからではないと思います。自分の心の中に「故人のために何かしてあげたい」という、菩提心が起こるからなのです。