時宗の教え

副住職がこれまで学んだことを整理してまとめました。檀信徒さんの信仰のお役に立てれば幸いです。

なお、用語の解釈等については、同じ宗派でも僧侶によって異なる場合もありますので、ご理解ください。

1.阿弥陀さまってどんな仏様?

西蔵寺のご本尊としてお祀りしているのが阿弥陀さま(阿弥陀仏)です。名号(仏様のお名前)の「阿弥陀」は、インドのサンスクリット語を音訳(原語の意味ではなく、発音を漢字に写す)したもので、「アミターバ」、「アミターユス」という2つの言葉が語源とされています。

この2つの言葉を紐解くと、阿弥陀さまがどんな仏様なのかが見えてきます。

まず、「アミターバ」という言葉には「無限の光(無量光)」という意味があります。この世には、仏の慈しみの光があまねく満ちており、私たちがどこにいようとも・どこへ行こうとも、救いの光で極楽浄土へと導いてくださるのが阿弥陀さまです。

次に、「アミターユス」という言葉には「無限の時間(無量寿)」という意味があります。限りなく遠い過去からの時間がつながっており、故人やご先祖様と一緒に、娑婆世界にいる私たちをいつでも・いつまでも見守ってくださるのが阿弥陀さまです。

あなたが楽しいときはもちろん、辛いときも・苦しいときも・悲しいときも傍に寄り添い、見守ってくださる仏様です。

西蔵寺のご本尊(阿弥陀三尊)
西蔵寺のご本尊(阿弥陀三尊)

阿弥陀さまの両脇の仏様は、向かって右が観音菩薩(左脇侍)、向かって左が勢至菩薩(右脇侍)です。阿弥陀三尊のお姿は、観音菩薩は阿弥陀さまの慈悲を、勢至菩薩は阿弥陀さまの智慧を表しているとされています。

2.南無阿弥陀仏ってどんな意味?

南無はインドのサンスクリット語の「ナモ」を音訳(原語の意味ではなく、発音を漢字に写す)したもので、「心から信じます」と解釈するのが一般的です。南無阿弥陀仏は直訳すると「阿弥陀さまを心から信じます」という意味になります。

一方、時宗の宗祖一遍上人のお言葉(『一遍上人語録』より)には「信といふは まかすとよむなり」とあります。そのため、時宗では、南無阿弥陀仏を「阿弥陀さまの衆生を救いとる働きにお任せします」と理解するのが適切と思います。

ここで言う「阿弥陀さまの衆生を救いとる働き」というのは「他力本願」のことです。

ここで他力についてです。「他」という字を見ると、誤解しがちですが、他力は不特定のどこかの他人の力ということではありません。人間の自分の力=自力に対して、仏や菩薩の力を他力と表現します。特に、浄土門では阿弥陀さまの本願力、救いの力ただ一つを指しています。

また、本願というのはは、阿弥陀さまが修行中の法蔵菩薩であったころ、私たち衆生を救う仏となるために建てた48の願いのことです。この18番目に、「衆生が南無阿弥陀仏と念仏を称えれば、誰ひとり漏らすことなく、必ず極楽浄土に救いとる」という願があります。この第18願は48ある願の中でも、最も大切なものとされています。

「名号は、信ずるも信ぜざるも、となふれば他力不思議の力にて往生す。」という一遍上人のお言葉(『播州法語集』より)があります。私たちが極楽浄土に救われるかどうかは、阿弥陀さまを信じる/信じないによって決まるものではなく、極楽浄土に救われたいという想いの有/無によって決まるものでもありません。阿弥陀さまの「あなたのことを必ず救います」という力の働きによって、極楽浄土に救われるのです。

繰り返しになりますが、この「阿弥陀さまの力の働きに、私の身をお任せします」というのが、南無阿弥陀仏の意味になります。

3.南無阿弥陀仏と称えるのはなぜ?

時宗は「南無阿弥陀仏とお念仏を称えれば、誰もが阿弥陀仏の極楽浄土に救われるという」という他力念仏の教えです。

私たち凡夫は、自力で悟りを開いたり、自力で苦しみから離れることが非常に困難であるため、南無阿弥陀仏とお念仏を称えて救って頂くのです。また、自力で何でもできるという心は、常に慢心が結びつきがちで、かえって警戒も必要になります。謙虚な心でお念仏称えることが大切です。

誰もが実践できる教えである一方、容易なことほど「これだけで本当に大丈夫なの?」と疑ってしまうのが人間の特性です。「薄い本より、分厚い本の方が有難いことが書かれているはずだ」と思ってしまうのです。

そうしたときに考えるべきことは、信仰と生活が両立するのかです。お寺で修行僧のような生活を送るのであれば、1日の時間を仏道修行に費やすことができます。

ところが、私たちは、食事や睡眠等を除けば、学校・職場・家庭などに1日のほとんどを費やしています。

お念仏を称えればそれだけで救われるというのは、「後は何もしなくて良い楽な教え」とは違います。信仰とは日々の生き方です。信仰を通して、生死の概念をどう理解し、自分の死をどのように受容するのかが重要です。

信仰のない生き方を「無明」と言います。私たちの人生には不確かさがあります。これまで歩んできた道(過去)は、後ろを振り返って確認することができますが、これから歩む道(未来)がどうなっているのかは誰にも分かりません。

そして、今歩んでいる道(現在)も一本道ではありません。この先枝分かれしたり、行き止まりがあって元の道に戻らなければならないこともあるかもしれません。無明は「明かりが無い」という字のごとく、暗い道を一人手探りで進んでいくようなものです。

日々のお念仏(信仰)は、即ち日々の生活の軸となります。阿弥陀さまとともに道を歩んでいくことが、時宗の教えです。

結びに、一遍上人のお言葉(『消息法語』より)をご紹介します。

「南無阿弥陀仏と一度正直に帰命しつる一念の後は、我は我にあらず、故に心も南無阿弥陀仏の御心、身の振舞も南無阿弥陀仏の御振舞、ことばもあみだ仏の御言なれば、生きたる命も阿弥陀仏の御命なり。死ぬるいのちも阿弥陀仏の御命なり。」